孤高の画家、岸田劉生の魅力とは?

岸田劉生という画家は、波乱万丈な短い生涯を送り、多くの名作を残しました。特に「麗子像」のシリーズは切手にもなっているので、誰もが1度は見たことがあるのではないでしょうか?
1度見たら忘れられない独特の力を持つ岸田劉生の作品について、彼の作風の変遷や人間的魅力にもスポットを当てながら解説します。

岸田劉生とは

岸田劉生は大正から昭和にかけて活躍した、孤高の洋画家です。パリの前衛的な芸術から影響を受けた画家が多かった中、北方ルネサンス絵画や中国の古典美術、日本の浮世絵などに目を向けて独自の路線を進みました。

38年という短い生涯を情熱的に生きた岸田劉生。大胆に独自のスタイルを確立して、多くの名作を生み出し、同時代の画家にも大きな影響を与えました。

岸田劉生を知る3つのキーワード

岸田劉生の作品について、本人が用いた言葉、「内なる美」「卑近美」の意味を知っておくことで、彼の作品が持つ世界観やその魅力をより深く感じ取ることができます。

1. 「内なる美」

岸田劉生は写実を追求した芸術家ですが、写実を通して対象物がもつ「存在の神秘性」を引き出すことを狙って描かれています。

「深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する。それは『神秘』である」(『劉生画集及芸術観』1920年)

岸田劉生は、対象物をリアルに再現するだけではなく自身の内面から呼び起こされた「内なる美」をその作品に投影しているのです。

2. 「卑近美」

写実を極めた岸田劉生は、次第に東洋の美術に惹かれるようになっていきました。岸田劉生は東洋の美術が持つ独特の美を「卑近美」という言葉で表現しています。

「東洋の美は、倫理的感銘が欠けているのではない。ただ、その露骨性を避けられているのである。匿くされているのである。
 東洋のものの渋さがそこにある。東洋のものは、一皮剝ぐと、そこに深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さ、そういうものがある。」(『純正美術』第2巻第3号、1922年)

岸田劉生は、初期肉筆浮世絵や中国の古典絵画に魅力を感じ、東洋美術の独特の美を自らの作品に落とし込むことに成功しました。

3. 「でろり」

ちなみに、岸田劉生は初期肉筆浮世絵の持つ世俗的で濃厚、生々しい持ち味のことを「でろり」と言う造語で表現しました。「卑近美」と「でろり」は岸田劉生の日本画を語るうえでのキーワードともいえるでしょう。

*肉筆浮世絵:浮世絵師が自ら紙や絹に描いた風俗画として、木版画の「浮世絵」と区別されている。

天才画家の4つの側面

時代に逆行していると批判されつつストイックに同時代の画家とは異なる独自の路線を歩んだ岸田劉生とは、一体どのような人物だったのでしょうか?その人柄を探ってみましょう。

1. 天真爛漫でいたずら好き

子どもの頃の岸田劉生はいたずら好きで有名でした。特に有名なエピソードは、糝粉(しんこ。白米をひいた粉)細工で血まみれの小指を作り、それを歩道に置いて通行人をおおいに慌てさせ、ついには警察までやって来る大騒ぎになったというものです。

ユーモアを大人になっても持ち続け、まるで子どものように無邪気で天真爛漫な岸田劉生のことを、周囲の人も憎めない性格だと思っていたようです。

2. 人を惹きつけるカリスマ性

岸田劉生の孤立をかえりみず自らを信じて力強く進む姿は、多くの人を強く惹きつけました。特に1915(大正4)年に岸田劉生が中心となって結成した草土社では、中核メンバーであった友人や若い画家たちのなかで、圧倒的な求心力を発揮します。

草土社のメンバーは精神的に強い絆で結びつき、岸田劉生が示す方向に向かって共に歩みました。

3. 情熱的で一途な性格

岸田劉生は、非常に情熱的で一途な性格でした。それがよくわかるのが、代々木時代の「岸田の首狩り」のエピソードです。

岸田劉生には、知人や友人に声をかけて肖像画を描かせてもらった時代がありました。このとき、あまりにも多くの人を描いたため「千人斬り」とも呼ばれました。

また、岸田劉生は熱心な研究家でもあり、彼の著作にはゴッホやデューラーなどの西洋の画家に加えて日本や中国の画家などの名前も多く出てきます。
京都時代に古美術の蒐集やお茶屋遊びに明け暮れた時期もあり、興味あることにはとことんのめりこんでしまう一途な性格であったことが伺えます。

岸田劉生「斎藤与里氏像」1913年

「千人斬り」と呼ばれた肖像画の一つ。
岸田劉生 「斎藤与里氏像」1913年
愛知県立美術館所蔵(パブリックドメイン)

4. 岸田劉生とキリスト教

岸田劉生は15歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになりました。一時は牧師を目指していたこともあり、ポスト印象派に出会うまでの岸田劉生は絵画を「布教のための手段」として捉えていたともいいます。

岸田劉生は画家として独り立ちしてからも、キリスト教の「天地創造」を描いた作品を制作しています。岸田劉生の尊敬していたゴッホもまた若い頃に牧師を目指しており、このようなふたりの共通点も興味深いところです。

波乱万丈な生涯と作風の変遷

それでは、岸田劉生の画業にスポットを当てながら、彼の波乱万丈の生涯を追っていきましょう。

幼少期から青年期にかけて

岸田劉生は1891(明治24)年、東京銀座に岸田家の第9子(4男)として生を受けました。岸田劉生は、楽善堂(らくぜんどう)という大きな薬屋を営んでいた父親の岸田吟香(きしだぎんこう)のもとで、裕福な家庭に育ちました。子どもの頃の岸田劉生はいたずらをよくしましたが、そんな彼を岸田吟香はとりわけかわいがったといいます。

何不自由なく育った岸田劉生ですが、1905(明治38)年に両親が亡くなると生活が一変。楽善堂は事業の縮小を余儀なくされ、岸田劉生自身も旧制中学校を中退します。そして、生前の父親からのすすめに従って数寄屋橋教会に通い始めます。両親を失った翌年、15歳で岸田劉生は田村直臣牧師から洗礼を受け、クリスチャンになります。

牧師を目指した岸田劉生でしたが、絵の才能を見抜いた牧師から画家の道を勧められ、17歳のときに白馬会洋画研究所に入ります。黒田清輝から洋画を学んだ岸田劉生は、1910(明治43)年に第4回文展(文部省美術展覧会)にて、2点同時入選。岸田劉生の才能が初めて世に知られることとなりました。

実業家の父、岸田吟香について

岸田劉生の父である岸田吟香は、幕末から明治にかけていち早く西洋の知識を取り入れて活躍したジャーナリストであり実業家でもあった、明治の先覚者です。

日本人で初めてアメリカ合衆国の市民権を取得したジョセフ=ヒコと共に「海外新聞」を発行。また、J.C.ヘボンの『和英語林集成』の編集を手伝いました。このときに用いられたローマ字は、現在ヘボン式ローマ字として普及しています。

また、医師でもあったJ.C.ヘボンより「精錡水(せいきすい)」という目薬の処方を習い、楽善堂という薬屋を営みました。さらに、精錡水を通じて日中間の貿易や文化交流を促進した人物でもあります。
これらの功績をたたえ、岡山県久米郡美咲町には「岸田吟香記念館」が建てられました。

時代の最先端を切り拓いていった父と、時代に逆行していると言われながら独自の路線を歩んだ岸田劉生は、一見対照的なようにも感じられます。しかし、周りに流されることなく自分を信じて力強く進むその姿勢は、岸田劉生の画業にも通じるものがあるように思えます。

衝撃の出会い、「第二の誕生」

1911(明治44)年、20歳のころに岸田劉生はゴッホやゴーギャンに代表されるポスト印象主義に出会ったことで、「絵の中に自分の内面を表現する」「自分が描きたいように描く」という表現スタイルがあることに気が付き衝撃を受けました。

この衝撃的な出会いのことを、岸田劉生は自ら「第二の誕生」と呼びました。そして絵を描くことが信仰の手段から生涯の目的へと変化した瞬間でもありました。岸田劉生は、黒田清輝風のスタイルを卒業することを決意し、なんと文展に入選した作品を売り飛ばしてしまいます。

時代への逆行、写実への道

1913(大正2)年、岸田劉生は結婚し、清貧のうちに代々木に居を移します。この頃、肖像画を描くことに熱中し、「岸田の首狩り」「千人斬り」などとも呼ばれました。

また、デューラーやファン・エイクを代表とする「北方ルネサンス」の絵画に出会います。その細密に描きこまれた写実的な作品を知って以来、岸田劉生はそれらに心を惹かれていました。「自分の内面に従って描く」という考えを実行するうち、ゴッホやゴーギャン風のスタイルから写実的なスタイルへと変化していったのです。

岸田劉生「斎藤与里氏像」1913年

岸田劉生 「斎藤与里氏像」1913年
愛知県立美術館所蔵(パブリックドメイン)

印象派的なタッチからデューラー風の光源を意識した写実へ。
岸田劉生 「高須光治君之肖像」1915年

岸田劉生 「高須光治君之肖像」1915年
愛知県立美術館所蔵(パブリックドメイン)

西洋から東洋へ、価値観の転換

1916(大正5)年の夏、岸田劉生は体調を崩して肺結核という診断を受けます。翌年、転地療養を兼ねて神奈川県の鵠沼(くげぬま)へ転居し、6年半を過ごしました。岸田劉生の体調はまもなく回復し、精力的に作品制作に打ち込むようになります。鵠沼時代は岸田劉生の画家人生における黄金期ということもできるでしょう。

岸田劉生は1921(大正10)年より、妻・蓁からのすすめで歌舞伎や文楽を観劇するようになりました。さらには長唄を習い始め、浮世絵などの日本の美にも惹かれ始めます。岸田劉生が本格的に日本画を描くようになったのもこの頃です。鵠沼時代の終わりには西洋から東洋への価値観の転換が始まっていました。

1923(大正12)年、関東大震災によって家屋が半壊したため、劉生一家は京都へ引っ越します。

東洋美術への傾倒

岸田劉生にとって、京都は憧れの伝統文化や日本美術を間近に見ることができる場所でした。このことに大きな喜びを感じた岸田劉生は、祇園でのお茶屋遊びや古美術の蒐集にのめりこむようになっていきます。古美術の蒐集に力を入れすぎたために一時生活が破たんしかけましたが、そのかたわらで岸田劉生は日本画の制作や執筆活動も多く行っています。

京都で2年半ほど過ごしたのち、劉生一家は1926(大正15)年に神奈川県の鎌倉町に転居します。その2週間後には長男の鶴之助が生まれました。

1929(昭和4)年、岸田劉生は南満州鉄道会社の招待で大連に赴きます。しかし体調不良で50日ほどで帰宅の途につきました。静養のために美術商の田島一郎の勧めで徳山に滞在しましたが、慢性腎炎に胃潰瘍を併発し、絶筆の『銀屏風』を描いた20日後に息を引き取りました。

岸田劉生の世界へもっと深くダイブ

ここからは、もっと岸田劉生についてマニアックになりたい方のための内容です。

鵠沼時代の終わり頃に東洋美術の魅力に目覚めた岸田劉生ですが、東洋美術への傾倒がより鮮明になったのは京都時代であるということは先述の通りです。ここからは岸田劉生と東洋美術のかかわりにスポットを当てて詳しく見ていきましょう。

京都で見つけた「卑近美」の世界

京都に住まいを移した岸田劉生は、京都の日本画家木村斯光(きむらしこう)と親しくなります。木村斯光は岸田劉生に日本画の手ほどきをしたほか、古美術の見分け方や茶屋遊びの嗜み方を伝えました。

古美術品の蒐集

岸田劉生は京都において自ら「江賀海鯛先生」と名乗り、古美術品の蒐集に明け暮れました。これらはもともと東洋の古美術に触れることで、そこで得た審美眼を作品制作に生かすつもりで始めたことでした。そのため、最も熱心に集めていたのが中国古典絵画(宋元画)と初期肉筆浮世絵でした。

しかし、古美術品の蒐集にのめり込んで収入の大部分を使ってしまったため、一時生活が破たんしかけます。そんな岸田劉生は、『海鯛先生の清玩論』というコラムで、弁明を試みるかのようになぜ古美術品を蒐集せずにはいられないのかをユーモアたっぷりの口調で語っています。

お茶屋遊び

岸田劉生は木村斯光と連れだって祇園のお茶屋を訪れ、そこに自らが「でろり」と名付けた濃厚で生々しい美しさを見出します。祇園には、岸田劉生の心を惹きつけてやまない初期肉筆浮世絵に描かれた怪しく濃密な世界が、そのままリアルに広がっていました。京都時代の岸田劉生はお茶屋遊びに頻繁に通い、舞妓を描いた作品も制作しています。

麗子像について

岸田劉生の娘麗子は、5歳から16歳までの間に何度も作品のモデルをつとめました。

「麗子像」のなかでも特に人気があるのが、ちょうど東洋美術に惹かれ始めた頃に描かれた『麗子微笑(青果持テル)』(1921年)です。さて、この作品を見たときに、奇妙で不思議な感覚を覚える人は多いのではないでしょうか?このような奇妙な感覚は、一体どこから来るのでしょうか?

この作品をよく見ると、毛糸の肩掛けの編み目のひとつひとつまでリアルに描かれていながらも麗子の顔は横長に、手は小さくデフォルメされていることがわかります。この作品の中には、写実的でありながらデフォルメされているという相反するふたつの方向性が同居しており、それが見る人をとても奇妙な感覚に陥らせるのです。

写実を極めながらも東洋的な「卑近美」も感じられるこの作品は、岸田劉生の代表作にふさわしい、一度見たら目が離せなくなるような神秘的な魅力を持っています。

岸田劉生 「麗子微笑」 (1921)

岸田劉生 「麗子微笑」 (1921)
東京国立博物館所蔵(パブリックドメイン)

岸田劉生の描いた日本画

岸田劉生の日本画の特徴は、一般的な日本画とは違って岩絵の具をほとんど使われず、墨や水干絵具(貝殻から作られた顔料「胡粉」に着色したもの)を用いて描かれていることです。また、岸田劉生の日本画は大きくふたつのタイプに分けられます。

宋元院体画風の作品

ひとつめは、中国の宋元院体画風に描かれたタイプです。北宋の徽宋(きそう)皇帝が推進した細密な院体花鳥画から影響を受けて制作されたこれらの作品は、絹本に淡く彩色しながら細かく繊細に描かれました。

文人画風の作品

ふたつめは、文人画風に描かれたタイプです。文人(中国の官僚を主とする知識人)が描いた自由なスタイルの絵画から影響を受けて制作されたこれらの作品は、紙本墨画淡彩で描かれました。

岸田劉生「弄脂調粉」

岸田劉生「弄脂調粉」
鈴木美術画廊

「私の日本画について」

東洋美術が持つ「卑近美」は、写実を極めた岸田劉生が次に辿り付いた新しい美の尺度といえます。岸田劉生が描く油絵、2つの様式の日本画は、互いが影響し合ってその質を高めていきました。

1924(大正13)年6月20日の『読売新聞』に「私の日本画について」というコラムを寄せた岸田劉生は、このような言葉を残しています。

「私のとっている南法、北法、両風の事だが、私としては本当に自分の本職として院体風写生画をとる。しかし、南法の風もこれにおとらぬ位好きである。或る時は南画風のものの方が描きたいし、また或る時は写生風のものがかきたく、両方を捨てる事は出来ない。
 油絵の仕事もこれと同じく、油絵でなくては生かせぬ私の中のものを生かすために、私はいつまでも捨てられない。
 皆私の中の画因(モティフ)が私にそれぞれの道をとらせるのであって、その点私は自由である。」

この言葉からは、岸田劉生が油絵と日本画のそれぞれを大切に思っており、どちらも重要視していたことが伝わってきます。

岸田劉生が愛した中国古典絵画

岸田劉生が描いた日本画が、中国の古典絵画を範として描かれていたということは先述の通りです。院体画、文人画と呼ばれるこれらの絵画はどのようなものだったのでしょうか?

院体画とは

まず院体画とは、中国宮廷の画院に属する画家が描いた絵画のことを言い、多くの場合は北宋の徽宋皇帝が行った画院改革以降に描かれた絵画のことを指します。宮廷趣味に応えて鮮やかな色彩で繊細に、装飾的に描かれているのが特徴です。

文人画とは

一方で文人画とは、中国の官僚を主とする知識人が自らの楽しみのために自由に描いた絵画のことを言います。文人画は水墨や淡彩で描かれることが多く、素朴なタッチで生き生きと描かれているのが特徴です。

南宋画と北宋画の芸術的価値

明時代になると院体画の流れをくむ絵画は北宋画、文人画の流れをくむ絵画は南宋画と呼ばれるようになっていき、そのなかで南宋画の方が北宋画よりも芸術的価値が高いとする考え方が広がりました。このような捉え方は少しずつ見直されつつありますが、現代にも根強く残っています。

まとめ

岸田劉生は最先端の絵画を取り入れようとした同時代の画家達とは対照的に、時代を振り返って北方ルネサンスの絵画、中国の古典絵画や日本の浮世絵から学び、独自の道を進んだ孤高の芸術家です。

文筆活動も盛んに行ったことで知られ、岸田劉生の著書や残された日記からは彼の人間的魅力や持っていた世界観を伺い知ることができます。これらは岸田劉生の作品を読み解くうえでヒントとなる貴重な資料といえるでしょう。

油絵と日本画という異なるジャンルの絵画を描きながら「内なる美」を追求した岸田劉生。徹底した写実に東洋の美を織り交ぜた岸田劉生の神秘的な作品は、今でも多くの人を魅了しています。

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